この記事は、FACEBOOKに投稿したものの転載です。昨今の新型コロナウイルス感染拡大関連で、状況が変わる中での投稿でしたので、その点も含めての転載です。ーーーの下からが転載になります。
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※ (加筆修正しました)
当初の投稿では「友達」までの公開に限定していました。いつもは、コンサートやライブに伺った後に書くreviewめいた記事を、「公開」にしています。しかし、新型コロナウイルス感染拡大の状況が、かつてない速さで変化する中、「ライブに参加する・しない」についての見解も刻一刻と変わらざるを得ない状況であり、そうした中で、この記事が思わぬ議論の端緒を開くきっかけになる可能性を避けたいと考えたからです。
しかし、その後、須藤信一郎さん(本文中に登場されるピアニスト氏です)他、複数の「友達」メンバーから、記事のシェア希望や公開希望をいただきました。拙文が、あまり建設的でない議論の種になることは変わらず避けたいと思いますが、live performanceの醍醐味についての考えを分かち合えるなら、一人でも多くの方のお目にとまれば、とも考え直し、改めて「公開」に切り替えることにいたします。
個人的には、野田秀樹さんが3月1日に出された意見書「意見書 公演中止で本当に良いのか(https://www.nodamap.com/site/news/424)、平田オリザさんが3月5日に出された記事「社会における芸術の役割について」(http://oriza.seinendan.org/hirata-or…/messages/…/03/05/7932/)でそれぞれ表明された見解に、現時点でも全面的に賛成しています。
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3月28日夜、京都・北白川の「ロンド・クレアント」で開かれた、キーボードとパーカッションのセッションに伺いました。キーボード担当のピアニスト、須藤信一郎さんからお声がけ頂いたのがきっかけです。パーカッションは、須藤さんの演奏仲間でもいらっしゃる熊本比呂志さん(国立音大の先輩後輩のご関係でもある、ということを、今回初めて知りました)。
「室内での音楽会は、やる方も聴く方も、中々、神経質になってしまいます。」でも、それでも、「音楽を聴いて、気持ちが晴れた ~、元気な気持ちになった ~。そんな風に思って頂けるような音楽を奏でたいと思います。」という、須藤さんのお気持ちが綴られたFacebookの記事を拝見した後で、改めて御本人からお誘いをいただいたのは、10日ほど前のことでした。
率直なところ、出席のお返事をする前に、悩みました。セッションそのものとしては、非常に魅力的な顔合わせ。普段なら、二つ返事で「わあ、お知らせありがとうございます!ぜひ行きます」と言うところ。しかし、昨今の新型コロナウイルス感染拡大にまつわる諸々の状況を鑑みれば、「行きます」と即答を躊躇わせるものが、たしかにある。
最もシリアスな要因は、今、社会の構成分子の一つである自分が物理的に移動することで、意図せずして感染拡大に「手を貸す」ことになるかもしれない、ということ。
しかし、これは同時に、今の日本では、「自粛要請」を繰り返すという、すこぶる(よろしくない意味で)「日本的な」行政のもと、暗黙理の同調圧力に繋がり得る部分も、ある。これら2つは、本来、決して繋がる/繋げるべきでないと私は考えます。客観的なリスク認識そのものと、漠とした恐怖と思考停止が混ざり合った「集団」における「大多数」とは違う考えや行動をする者への偏見、が一緒くたにになる時こそ、ナンセンスな差別や無理解、さらには攻撃の温床が出来上がると考えるからです。
理想は、既に他のいくつかの国々が実行しているように、政府や行政機関が明確な論拠と基準を示した上で、毅然とロックダウンなり、国民の社会活動制限なりを法の下に行い、同時にそれによって起きる国民生活への経済的・肉体的・心理的ダメージに対し十分な補償を行うことだと考えます。国家が国民の安全に対する責任義務として、敢えて一つの「正解」を提示し、それに準拠して行動するように要請することで、本来個人レベルでの「正解模索」が徒に消耗を招く事柄にクリアな見解を示し、結果的に国民の余計な経済的・心理的消耗、疲労を避け、より建設的な方向へエネルギーを傾ける、というやり方です。
が、それとはかなり異なる事態を呈している現在の日本において、この時期にlive performanceの場に身を運ぶ、ということは、これまで自覚することのなかった「覚悟」を要求されることになっていると言わざるを得ません。パフォーマンスをする/しない、それを聴きに(観に)行く/行かない 行為そのものが、”show the flag”(自分の信義・立ち位置を明確にする)に直結するのですから。
須藤さんはFacebookで、コロナ対策はできる限りきっちりやる、と明言されていました。人数もかなり少なめに抑えられる見込みのようでした。感染拡大のリスク回避のためにできることはやる、その上で、敢えてこの日、この場所で、このメンバーで、音楽を届けたい。演る側がこのように「覚悟」している、これに自分はどのように反応したいかと問うた時に、答えは「行く」でした。
会場へ向かう道すがら、そもそもlive performanceというもの自体、音楽でも演劇でも、非常に脆い前提条件の上に成り立っている、まさに「一期一会」の営みなのだ、という、今更ながらのことが鮮烈に頭をよぎりました。
そして、かつて、杉村春子、太地喜和子という、日本演劇に大きな足跡を遺した二女優の、それぞれ「最後の舞台」の客席に自分が居合わせたことを思い出しました。
杉村春子さんは『女の一生』。太地喜和子さんは『唐人お吉物語』。どちらも、一つタイミングが違えば観ることがなかった舞台でした。肉体がこの世から消える直前の役者の、最後の輝きを見た体験は、思い返すだに敬虔と呼びたくなる感覚が沸き上がります。
さらに、かなり年上の友人が、贔屓のオーケストラの公演を聴きに行った帰りに、交通事故で即死の最期だったことも思い出しました(ずいぶん後になって、奥様が「行きではなく、帰りでよかった。長患いで苦しむこともなく、お気に入りのマーラーの五番を好きなオケの演奏で堪能した後に、パッと逝ったんです、思えば幸せなことでした」と)。
特定の日時に、特定の場で、まさに「おちあって」、performanceの時間を共有する。生身の人間が、命を張って演じる舞台に、聴く(観る)側も、命を張って出向く。一つ掛け違えば実現し得ない、時空の綱渡りのような行為。思えば、当たり前のことですが、live performanceの宿命(あるいは本質)ともいうべきこの事実を、改めて実感したのでした。
会場となった京都・北白川の「ロンド・クレアント」は、京都大学名誉教授であり、文化人類学(民族学)者であった、梅棹忠夫先生の旧宅を改装してギャラリーにしたところで、大きなガラス窓からユニークな石庭が背景として見えるステージスペースでした。
薪ストーブが赤々と焚かれた室内に集ったのは約十名ほど。そこで奏でられた音楽は、ホームコンサートという言葉がしっくり来る、和やかで親しみに満ちたものでした。が、同時にそれは、本来なら百人、二百人の聴衆と分かち合えたらと切なくなるような、極上のMUSICでもありました。
主に須藤さんが口頭で案内された演奏曲目を、今全て思い出すことが叶わないのですが、印象に残ったのは「ストラスブール・サン・ドニ」やチック・コリアの「スペイン」など、ジャズの有名作品を、キーボードとパーカッションで新たな表現にアレンジしての演奏です。「リベルタンゴ」も、オリジナルとは一味も二味も違って、キーボードの深みある演奏とエッジの効いたパーカッションが前面に出た、斬新なパフォーマンスで。無国籍の印象を帯びる「ノルウェイの森」は、次々に繰り出される熊本さんのパーカッション楽器の音に導かれ、文字通りワールドミュージックの「迷路」に誘い込まれるようでした。様々な打楽器の紹介や、各曲の背景・アレンジの裏話なども絡めながらプログラムは進み、やがてアンコールは須藤さんのオリジナル曲「ケンプハウス」(北海道・千歳にあるThe Birdwatching Café滞在中に作曲されたそうです)。
演奏を聴きながら、改めて感じたのは、須藤さんも熊本さんも、作家が自分の「文体」を持つように、自分の「音のスタイル」を持っている、ということ。技術としても、表現の面でも。だから、臨機応変が可能だし(共演者、プログラム、会場によって、自在に演奏を調整
し、その時求められている役割を完璧にこなされる須藤さんのピアノはまさに好例)、同時に決して「ブレない」芯がある。ああ、二人ともに本物のプロ・ミュージシャンだなあ、と実感する瞬間でした。
同時に、今回瞠目したのは、「パーカッショニスト熊本比呂志」のパフォーマンス。初めてお目にかかった頃、演奏仲間の皆さんが、彼のことを「くまもん」や「くまさん」と呼んでいるのを耳にして以来、私の中ではホワンとした、それこそプーさんのような長閑な「熊さん」のイメージが定着していたのですが、様々な打楽器を自在に操る姿、そこから迸るエネルギーを目の当たりにして、改めてすごいプレーヤーだと実感しました。同時に、本当にこの人は楽器と「遊ぶ」ことを愛しているのだとも。「無我童子」のようなイノセントな悦楽と、興福寺の阿修羅像のような激しさが共存するパーカッショニストからは、確かに磁気に似た強いエネルギーが放出されていました。
こんなお二人の自由闊達な演奏を聴きながら、客席エリアもまた思い思いのスタイルで音楽を楽しんでいました。「ロンド・クレアント」のオーナーであり、梅棹先生の御子息であられる梅棹マヤオさんは、最前列でゆったりと床に座して、時にじっと聴き入られ、時に二人の掛け合いMCに大きな笑い声も。本当に自然体で楽しんでおられるのが伝わってきて、こちらまで気持ちが柔らかく緩むようでした(終演後のオーナーパーティにもお邪魔させていただきましたが、奥様はじめご家族の皆さまのお心尽くしのおもてなしのひとときは、柔らかい京言葉でのやりとりに「大人の精神的余裕」が感じられる、素敵な集いでした)。
「ライブは1ヶ月ぶり」と仰る方もおられて、皆それぞれに、この一夜の音楽を愛しんでいることが感じられ。そんな中で思ったのは、今更ながらに、「ライブ」とは演る側と聴く(観る)側、両方揃って双方向に作用しあって初めて成立し得る、のだということ。
今回のコロナウイルス感染拡大を受けて、特に音楽業界ではジャンルを問わず、いかに「物理的に集わずして」コンサートやイベントを成立させ得るか、ということに工夫を凝らす動きが出てきています。YouTubeでの動画配信(有料、無料色々)をはじめ、様々なアイデアが試行されている様を見ていると、これはこれで、将来新たな形でコンサートやイベントを楽しむスタイルの萌芽になりつつある、と思います。おそらく、今回のウイルス騒動の後には、これまでにない新しいやり方でコンサートやイベントを楽しむ方法が生まれているでしょう。それは音楽・芸術文化のさらなる「進化」につながっていくと確信します。
その一方で、本来の意味でのlive performanceしか生み出し得ない「醍醐味」も、決して失くしてはいけない、とも改めて痛感するのです。
専用機器に囲まれたスタジオで録音する時、無観客のホールで動画配信用に演奏する時、演奏者は、直接見ることも聞くことも触れることもできない、その存在を実際には感じることができない「聴衆」(受け手)のことをでき得る限り想像し、最高の演奏をしようとするでしょう。あるいは、受け手が目の前にいないからこそ、逆に自分の内に意識を集中させることで高いパフォーマンスを目指す演奏者も少なくないでしょう。しかし、そのような形で行われるパフォーマンスと、受け手が実際にその場を共有する中で行われるパフォーマンスは、やはり全く異質なものだと思うのです。
演る側と聴く/観る側が時空を共有する時、そこには双方の「出会い」の瞬間の連続が生まれます。演る側は絶えず聴く/観る側の反応を全身で感じながら表現をし続ける。聴く/観る側は単に演奏を聴いたり、ステージを観ているだけでなく、五感全てで、演る側の存在全てを自らの身の内に取り込む。その時に、ステージと客席の間には、確かに見えない磁場が生まれます。シャーマニズムに通ずると言っても過言ではない、野生のエナジーと繊細さから成り立つこの「磁場」は、どれだけテクノロジーが発達しようとも、本来の形でのlive performanceでしか生み出し得ないし、体験し得ないものだと思います。
極めて皮肉なことに、今はウイルス感染を回避するために、文字通り「外界と自分の間を完全に遮断する」ことが要求されています。ある意味、このような事態になって初めて、私たちは「自他の境界が触れ合い、響き合い、交じり合って初めて体験できる感覚」の貴重さを本当に知りつつあるのかもしれません。人間が生身の体を持つ限り、希求するこの感覚が存分に満たされる時が再び訪れる、そう信じて、今はできることをできる限り(「ポスト・コロナ」においての新たな企画計画も含めて!)やっていきたいと思います。
(※最後に、今回のライブでは、換気や利用可能な消毒剤の提供など、細かいところまでウイルス対策がなされていたことを書き添えます。)