1月5日の青山スタインウェイ・ショールームに続き、八木大輔のピアノを聴く機会に恵まれた。2月27日、東京・銀座Chanel Nexus Hall。Chanelによる若手芸術家を応援するプログラム「シャネル・ピグマリオン・デイズ」中の一イベントとしての演奏会。グランメゾンならではの、無駄を削ぎ落とし洗練された空間に据えられたスタインウェイで、八木が奏でるモーツァルトとベートーヴェンを聴きながら、ここ一年ほどの間に自分に訪れた「幸運」を改めて思う。
その「幸運」とは、才能溢れる若いピアニストとの、立て続けの邂逅だ。それぞれに個性を際立たせながら、今日只今の年齢と境遇にあるからこそ発揮する「時分の花」の煌めきと共に、まだ見ぬ未来の「完成形」―「まことの花」―の有り様までも窺わせる演奏。それらに触れて、瞠目と驚嘆を繰り返すうちに、自分はこれまでピアノという楽器について如何に無知であったかということに改めて気づかされる思いがしている。同時に、この、西欧社会と文化が産んだ最大の楽器と言っても過言ではない「奏でる器」が持つ可能性の底知れなさを実感してもいる。
2月27日の八木大輔の演奏を聴く体験は、若手の優れた演奏家との出逢い続きの中で、私が最近ぼんやりと思い巡らせていた、漠然とした「仮説」めいたものに、一つの「証左」の光が当たった瞬間でもあった。その「仮説」とは、仮にピアノ演奏に「究極点」というものが存在するとすれば、二つの形のいずれかに行き着くのではないか、というものである。
一つは、ピアノという楽器が出力可能な「究極の美しい音」を追求する演奏。特にクラシックの場合、その作品が「音」のかたちをとって三次元空間に現れた時に、最も「完成された」姿で響くことを目指す。それは数学の定理がもつ美しさと通じるところがあるかもしれない。ほんの少しのズレや歪みがあっても成立しえない、完璧な美。黄金比をはじめ森羅万象に潜む「完成された美」に、人がそれとは気付かぬまでも大きな感動や安らぎを覚えるのと同じように、「宇宙の理そのものを映したかのような究極の整い」が放つ美しさは、聴く側の心身を自ずから調律し、魂の深いところからの癒しを可能にする。
もう一つは、ピアノを、「音を創り出す」だけでなく、もっと様々な表現の媒体として捉えるところから発して、「その時その場においての最高」の表現を目指す演奏。この場合、ピアノは単なる楽器であることにとどまらず、思想や哲学など様々な分野に関わるコンテンツやメッセージをアウトプットする、非常に高度な「知的発信装置」となる。2月27日の八木大輔の演奏は、このタイプの極めて清新な萌芽を感じさせるもので、弱冠十八歳にして、既にこれだけの鋭利かつ真摯なアプローチの気配を見せる彼に、底知れない可能性を見た思いがしたのであった。
これら二つの「演奏のかたち」を比べて、どちらが上、下というつもりは全くない。ただし、共通するのは、これらは共に、巷に横溢する、プロ・アマ問わず「ピアノを弾く」という「営み」とは確かに一線を画するということだ。そして、言うまでもないが、「ピアノを弾く営み」がこれら二つに比べて下等である、劣る、と言うつもりも全くない。ただ、明らかに質が異なる、ということである。それは究極のプロフェッショナリズムを追求する世界であれば、分野の別を超えて共通することでもあろう。たとえば、料理の世界において。調理という行為自体は、人間として生きる限り誰にでもついて回る(自らするかどうかは別にして)ことだが、プロの料理人が「究極の料理」を目指した時に、「料理そのもの」の完成形を追求するアプローチと、「料理を通して」さまざまな何かを表現することを極めるアプローチに最後は二分かれしていくのに似ている。
八木大輔のピアノを聴くまでに、最近私は、前者のタイプと思われる才能溢れるピアニストに出逢う機会があった。彼のピアノを聴く度に、私は、言葉や思考が未だ介在しない精神の底の方から汲み上げられた情動のエネルギーが、ピアノという出力装置を通して変換・濾過、洗練のプロセスを経て、最終的に「この音、この波形しかない」というところまで整えられて響きわたるのを何度も耳にし、圧倒される思いがした。それは自然(the Nature)の諸相に見られる完璧なフォルム、純粋数学の定理、天体の軌道が描く幾何学模様が見せる同質の美しさであり、彼の演奏姿は、神話の時代に冥王の心を動かした竪琴師オルフェウス、鬼神を感涙させた平安時代の楽の名手源博雅も斯くあらん、と思わせる、「純粋な奏楽の人」のそれであった。そして、矛盾するように聞こえるかも知れないが、こうした「純粋な楽人」は、本人が意識するかどうかは関係なく、本質的には「聴き手」を必要としない。彼/彼女にとっては、自分自身が今向き合っている「音楽」さえ在ればよいのであって、聴衆は必ずしも必須ではないのだ。古今未だ、オルフェウスも源博雅も、彼ら自身が聴き手を求めている姿で描かれたことはない。絵画や絵巻の中に描かれているのは、彼らの演奏に、あたかも花の香りに吸い寄せられるように集まってくる聴衆の姿である。
このような体験の後であったからか、八木大輔のピアノはなおさらのことに、私にとって新鮮だった。この日の彼のメイン・プログラムはモーツァルトのソナタ8番(K.310)と ベートーヴェンのソナタ31番(作品110)。当時の社会背景や作曲家自身の伝記的なエピソードを紹介しつつ、彼のMCの中でとりわけ印象的だったのは、「今日只今の自分がこれを演奏することの意味・意義・文脈」について、真摯な語り口で説明しようと努めている姿だった。モーツァルトのソナタについては、この作曲家特有の「短調」の調べについて感じるところと、母の死という出来事がモーツァルトの作曲活動に及ぼした影響、当時の社会の様相などについて述べた上で、演奏者としての自分にとって、このソナタが今どのような位置付けにあるのか、を。ベートーヴェンのソナタの際には、作曲家自身の病苦体験が作品に反映される様子、迫る死への恐怖と縋る生への希求のコントラストについての分析と共に、今日の世界情勢において、一演奏者として自分がこのソナタを弾くことの意味について、を。この若いピアニストは、己の語彙を総動員して、聴衆に伝えようと努力していた。
こうした言葉の提示の後の彼の演奏は、今度はピアノという楽器を媒体として、自らの演奏によって作曲家その人に、真正面からの「対話」を挑む姿勢が如実に感じられるものだった。
少し脱線するが、八木大輔の演奏直前の姿は非常に特徴的である。鍵盤と、前方の空間を交互に見やりながら、双眼を時に大きく見開き、時に細め、時に瞑目する瞬間もありつつ、「今ここ」というタイミングを見計らっているかのような短いひとときの後、やがて「ふっ」と指が動いて演奏を始める。この一連の所作には、1月5日に初めて彼の演奏に直に触れた時にも強い印象を受けたが、今回のはあたかも楽器のボディの向こうに広がる空間に、作曲家その人を「召喚」し得るかのような、静かな自信のようなものさえ感じさせる「確かさ」があった。終演後に、幸運が重なって、短い時間ではあるがご本人と直接話す機会を得た時に、彼自身の口から「今日は、ベートーヴェンは〈呼べた〉ような気がする。足くらいは引っ張ってこれたかも」という内容の言葉が出たのを聞いて、私が受けた印象はあながちずれてはいなかったかもしれないとcoincidence(偶然の一致)の妙を感じたことであった。
そんな、どこか神秘主義めいた、極めて感覚的な表現の一方で、彼の演奏は非常にアカデミックな(本来の意味である)佇まいを思わせるものだった。おそらくこのピアニストにとって、楽譜は単なる演奏のためのコードデータを束ねたものではなく、哲学者の著書と同質のものなのではないだろうか。彼にとって、数百年以上前の西欧に生きた音楽作品の創り手は、単に楽曲をクリエイトしたアーティストというだけではなく、生老病死をはじめとして、人間にすべからく突きつけられる様々な根源的問いに立ち向かい、音楽というかたちで答えを表出しようとした哲学者でもある。彼はピアニストとして彼らの作品を演奏することで彼らの知的冒険、思索の旅路を自ら追体験することを通して、まず自身が作曲者に〈対話〉を申し込み(挑み)、これをステージの上で「公表」することで、聴衆も作曲者に出会わせようと試みる。いわば、非常に知的な「霊媒」(medium)としての演奏家の役割である。そう思わせるほどに、彼の演奏は作曲者、そして聴衆との〈対話〉を求める熱を感じさせるところがあった。
これは、はじめの方に書いた、ピアニストが行き着くもう一つの「究極点」、つまり作品としての完成された美を追求する姿勢とは全く違う。前者が、それこそ数学者のように、ただ一つの答え=完成された美、を求めて独り音楽と向き合うのに対し、こちらは哲学者が古代以来連綿と「対話」という形で思索を深めてきたように、決して一つとは限らない答え=その場その時において最高の表現、を引き出し、聴衆に提示することを目指す。そのためには往々にして「完成された美」から敢えて遠ざかる時さえある。つまり、ピアノを通しての哲学的思索の軌跡としての「疵」を、一種の「ノイズ」として残すことに意味を置くことさえするのである。その意味で、この日の八木大輔のピアノを聴いた後は、演奏会の後、というよりはむしろ新進気鋭の哲学者の著書の読後感に近い感覚があった(同時に、これは甚だおこがましいことかもしれないが、彼がMCの中で口にした、「今日はモーツァルトとベートーヴェンのソナタを弾きます。ソナタ2つは結構しんどいです、大変です。聴衆の皆さんも、聴くのしんどいと思います」という言葉の意味を、十分に理解して受けとめられる聴き手がどれくらいいるだろうか、とも感じた。弱冠十八歳にして、既にここまで演奏家としての本分ということに、意識無意識は別にして、気づいているであろうこの若いピアニストの眼に、現代の日本におけるmassとしての聴衆は果たしてどのくらい魅力的に映るのだろうか・・・)。
最後に一つ、誤解の可能性をあらかじめ解いておきたいことは、作品に作曲者自身の人生の影響や意図、当時の社会背景等を反映させて解釈し、かつ演奏者本人の問題意識や思索の軌跡を照射させるというと、いわゆる「政治や思想に関心が高く、自らの活動を通してイデオロギーを表明しもする」ポリティカルなタイプのアーティストを指すのかと解釈する向きがあるかもしれないが、全くそうではない。むしろ、作品としての完成された美を追求するタイプの演奏家と同等に、こうしたタイプの演奏家は、音楽という芸術がもつ本質的な「自律性」−世の常に惑わされることなく、「存在」し続ける−を信じるストイックさを持っていると思う。その意味で、両者共、真の意味での芸術の「極道」に生きる者であろう(言うまでもなく「極道」という言葉は元来一つの道を極めた者、極めようと志す者を指す仏教用語である)。世界が混迷という名の汚濁と、これまでにない「新時代」の光の両方を孕んで回り続けているこの時代にこそ、「極める人」の存在は貴重である。八木大輔という若いピアニストも、たしかにその一人たり得るという希望を感じながら、これからさらに彼の演奏に注目したい。
山田 良
(一般財団法人 カンセイ・ド・アシヤ文化財団 代表理事)